肯定の押し売り、やめない宣言。
こんにちは。五年くらい前はナルシストを名乗ってた、イタ〜い人。でなりです。
昨日相変わらず友達とスプラをしてたら「また相談相手になってください」なんてすてきな言葉をかけてもらい、嬉しいとともに、実はビクッとした。
というのも、昔からあまり自分は人の悩みの相談相手になるタイプではないのである。
その要因の一つはきっと、僕の自己肯定感の高さが由来してると最近感じている。
自己肯定感が高い人の悩み
嫌味らしく、また諦めっぽく聞こえることを恐れず言うと、自己肯定感の高い人間は、低い人間の気持ちに究極なれない。
「○○が全然できない自分が許せない」なんて聞いた日には「いやいや、生きてるだけで丸儲けよ?」と思ってしまう。
でなりさんは努力して立ち向かい、成し遂げてるから自己肯定できるんだ!なんて言われたりするが、自己肯定感オバケは人と比較などしない※1。
残念ながらでなりさんは元々特別なオンリーワンなのである。
その思考になると人を褒めるのは容易い。なにせ全人類元々特別。特に友達ともなると、いいところを見つけてるから友達なわけで。
しかし自己肯定感が低いと素直に受け取れないことがある。10の褒め言葉より1の失敗を見て心が疲れる。僕から見たらそんな性格すら「なんで妥協のないカッケェ性格なんだ!」と思うのに、ずるずると自己否定に走り悲しむことがあるなと感じる。
僕の個人の話
別に僕は自己肯定感は生まれながらにして高かったわけではない。特にスポーツをやってる時は酷かった。昔から親兄弟から鈍臭いと言われ、マイペースにことを進めればノロマ扱い。
それなのに個人スポーツのバドミントン部に入ったが故に、番手という概念に出会う。たいして懸命に運動したわけでもなければ、ノロマな僕は周囲に置いていかれる。
そんな僕の自己肯定感がなんとかなり始めたのは、 親が勉強を褒めてくれるようになってからである。 自慢ではないが僕は家族全員の中で1番学校の成績が良かった。田舎の公立中では1位を取ったことも(一応)ある。
特に数学が得意で、親も「あんたは理系やね!すごい!」と言ってくれるし、友達も先生方もそう言ってくれる。
それにより、最終的に何かに悩んでも 「俺には数学がある…」と呪文のように思う ことで、何にもできねえなぁという自己否定から逃げられたと思う。
そこから「数学」「プログラミング」「デザイン」と依代を渡り歩いていき、なんとか周りの人から褒めてもらうことで少しずつ自己肯定をできた結果、やっとこさ自分のことを自分で認めてあげられるようになったのである。
「数学が好きだから、ぜってえに負けねぇ!!!」とひたむきに努力をしたように受け取れる文章だが、そうではなくて、別にその場その場でなんとなく得意なことを言い訳に自分を許していた。
個人的には自己肯定感を高める方法はこれっきゃないと思っている。
自己肯定感を高めるのではなく、逃げ道を探し自己否定を止める
デザイナーになりたての頃、作るものがなんだかダサくて、すごくモヤモヤすることが多かった。でもあの時自分を支えてくれたのはプログラミングの存在だった。
新卒でプログラマになれる程度にはなんとかプログラミングができ、そしてデザインもなんとかできてる自分。その二足の草鞋で逃げ場を作っていた。
しかしそこは実は逃げ場ではなかった。あの頃は「え、デザイナーでそのレベルでコード書けるひと居ないよ!レアですね!」なんて褒めてもらうことも多く、「あぁ、そうなんだ、そんなそんな、嬉しいなぁ…!」とよく思っていた。
僕は気持ち的には逃げていたが、実はそこは褒めの温床だったのである。
人にはいろんな側面がある。きっとAがダメでも、Bができることがある!みたいな。そういう時はAと向き合いすぎなくていい。Bに少し逃げてみるとBで褒めてくれる人がいる。
Bで少し逃げたら、またAをやってみる。それを繰り返すと次第にAでも人に褒められるようにもなる。ここまで来たら、AもBもできる人になる。
大切なのは、 否定しすぎて落ちることを避けることである。 しつこいが、元々特別なオンリーワンの我々には、なにかしら小さくとも長所がある。それを大切にし、そこに逃げてあげることこそ、きっと自己否定気味の人に必要なことな気がする。
結局僕にできること
冒頭に述べた通り、きっと僕は自己肯定感の低い人の気持ちに究極寄り添いきれないと思う。
相談に乗るふりをして自己肯定感を押し売りしてしまっていることなんかもあり、悩みだなと感じていた。
しかし最近考えを改めた。
上の例で言えば、Bに逃げた時、Aで少しでも成長した時、僕の親が、友達先生などが最初してくれたように、誰かが褒めてくれることがすごく大事なように思う。
僕にできること、それは
とにかく人を褒める。だれかの素敵なところを素敵だと伝える。
やはりこれしかないと思う。
僕は誰かに自己肯定感を押しつけてしまうかもしれない。もしかしたらそれが人を傷つけるかもしれない。
だから僕は、同じ数、いやもっと多く、誰かを肯定していき、人をしれっと救える人でありたいなと、最近感じた。
※1 : 僕はする。ただし、僕と誰かを比べるのではなく、僕のデザイナーとしての特徴と、誰かのデザイナーとしての特徴などを比較する。これをすると、人格丸ごと否定が構造上ほぼ不可能になるので、自己否定できなくなる。僕は、すくなくとも視力ならキムタクに勝ってるのである(知らんが)。